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猫が死んでしまった

2010 年 6 月 27 日 日曜日

2 月ごろから弱っていたうちの大鬼熊瓦之丸権三郎左右衛門ですが、本日死んでしまいました。

二日くらい前から体を起こすことができなくなっていてオムツをしていました。それでもまだまだ生きて欲しいと思っていましたが、今朝、見たときには呼吸がかなり速くなっていました。「もうダメなんだ」と悟りました。昨日は呼んだら顔をあげたのですが、今日は呼びかけても何も反応をしません。体を持ち上げて水を飲むように促しても何も反応をしませんでした。ただ呼吸を精一杯に続けるだけです。

それから数時間してからまた様子を見に行ったところ、ちょうど母が遺体を段ボール箱につめ終わったところでした。

最後にもう一度見たいと思って段ボールを開けると、やはり死んでいました。なでると体温がなくなりつつあるのが分かりました。そして体が剥製のように硬くなっていました。目は見開いたままでした。最後に見た姿勢のままでした。

私は死語の世界というものは全く信じていません。生物は死んだら肉塊になるだけだと思っています。だから、冥福なんてものはないと思っているし、祈りません。死は特別な状態ではないと思っています (この考えはあくまで私だけのものであって、私以外の誰かの思想を否定するものではありません)。

でも、死に目に会えて良かったと何故か思います (今月は神奈川のほうでの仕事が多く、あまり帰宅してませんでした)。彼との 18 年弱の出来事を思い出しながら段ボールにガムテープを貼り直すと、目から涙が出てきてそして頬をつたって落ちました。こういうことがあっても泣くような人間ではないと思っていたのですが、そうではなかったようです。

命に重さなんてあるのでしょうか。誰かに悲しいと思われて死ぬ生き物もいれば、誰にも悲しいと思われずに孤独に死ぬ生き物もいます。前者の方が重いのでしょうか。でも、我が家で今日死んだ猫と私が今日食べた牛はどちらもちょっと前まで生きていました。死んだ命に感謝して食べろと言われることがあります。でも、以前、知人十数人に「誰かに『感謝して食べるから死んでくれ』と言われたら納得して死ねるか? それで殺されたら相手を許せるか?」と聞いたところ、全員が「死にたくないし、許せない」と答えました。私もそう思います。

今日私に食べられた牛は殺される時に何を思ったでしょうか? 死者がどう思おうが、殺した者が何と思おうが死は死です。死は死であってそれ以上でもそれ以下でもないのではないか。それ以上があるとすれば、私が流した涙がそうであるように、それは感傷に過ぎないのではないか。結論は出ませんがしばらく考えてみたいと思います。

明日、遺体を詰めた段ボールを市の斎場に持って行き火葬します。

追記
遺体は斎場ではなく市の焼却炉で今朝 (28 日朝) 焼却されたそうです。料金は 315 円だとか。領収書の明細がごみ扱いなのが悲しいところです。


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    FK774 2010 年 6 月 28 日
    大岡昇平の野火をオススメします
    プロ 2010 年 6 月 28 日
    ありがとうございます。興味深そうなので早速注文してみました。

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